強迫性障害。自分への適切な声かけの検討。

映画「アド・アストラ」を観てから、自分

へ具体的な内容で声かけする方法を試して

います。

 

現在、もっとも使うのは「何も問題が見出

せない、だから、どうしようもない」です。

主に確認が止まらなくなり、身動きが取れな

くなったときに使います。その時点では冷静

な判断力を失っているので、感覚的には何か

をやらかした感じがしています。そこで自分

に声かけし「どうしようもないんだから、前

に進め」と促します。

 

これは、あとあとその状況を想起してしまっ

たとき「少なくとも、そのときは何も問題が

見出せなかった」と後悔が生じにくい声かけ

です。その声かけをしていなかったら「もっ

と確認しておけばよかった」などの後悔が生

じやすいと思います。

 

そもそもあとになって想起すること自体が避

けたほうが良いので、本来は、想起しかけた

時点で、

①強迫観念を打ち消すのは良くない。

②強迫観念と議論するのは良くない。

③強迫観念は雲のように扱う。

といったことを思い出し、スルーするのがベ

ターです。

 

「何も問題が見出せない、だからどうしよう

もない」は、加害強迫に限らず、確認強迫等

もカバーするので、パワーとしては弱いです

が、オールマイティーです。

 

以上は、強迫観念で身動きできない時を想定

していますが、もう少しライトな状況であれ

ば、加害強迫にピンポイントな声かけでも良

いように思います。「誰もいない(だから加

害は起こりようがない)」。ただ、この場合

は確認や、その他の気になる点はカバーして

いないので、想起してしまったときに「誰も

いなかったけど、××の確認はしなかったので

はないか」といった疑念が生じやすいです。

「誰もいない」はシンプルで比較的パワーが

あり使いやすいフレーズですが、オールマイ

ティーではないので、深刻な状況には適切で

ないかもしれません。

 

確認をし始めてしまうと、概ねライトであっ

た状況もヘビーな状況に移行します、なので、

最初は「誰もいない」と声かけして進んでも、

徐々に「何も問題は見いだせない」に移行し

がちです。

 

余裕のあるときに「誰もいない」という声か

けで動く練習をしておいたほうが良いかもし

れません。

 

迷うのは、比較的調子が良く、声かけの必要

を感じないときに、敢えて声かけの練習をす

るのは有効か否かという点です。

 

条件付けという観点からすれば、声かけの必

要のない状況であれば、声かけせずに前に進

んだほうが、良い条件付けができるような気

がします。とはいえ、何事も練習しておかな

いとできないので「誰もいない」と声かけし

て前に進む練習も、どこかでしておいたほう

が良いように思います。

 

自分の状態というのは意外とわかりません。

どれほどの確認や声かけが必要な状態なのか、

もしくは何も必要が無いのか。実際にやって

みて「あ~確認が足りなかったから不安だ」

「声かけしておけばよかった」とわかります。

 

練習は、自分の状態がわかる同じシチュエー

ションで行うのが良いかもしれません。

 

さきほど、両親のグループホームへの郵便物

をポスト投函に行きました。比較的調子が良

いと思っていましたが、投函するころには「

封筒が半分消えたから半分入っている」「あ

と3cm」と問題なく投函されている様子を認

識しようと躍起になりましたが、どうにも確

信が持てませんでした。その後、帰り道では

振り向いた道に何も問題がないということが、

どうしてもわからず「何も問題が見出せない、

だからどうしようもない」と声かけし、前に

進みました。調子が良いと思っていても、一

度強い強迫的な脳の使い方をするとその後が

ボロボロになります。

 

まだまだ治癒へは遠い道のりを感じます。ひ

とまずは自分への声かけをしながら粘るしか

ありません・・